催したなら、脱糞をすればいいじゃない。

お姫様がこんなこと公の場で口にしたら即ギロチンである。

モーツァルトは逆に喜ぶのかな。

いや、どうだろうか。言うのは好きでも彼女に言われたら血を吐くかもしれない。

まぁ何が言いたいかというと常識って不自由ねという至極当たり前のこと。

縛られてるけど守られてる。人間って弱い。

自分じゃなきゃいけない、自分がいなけりゃ生きていけない、自分も同じである…存在がいてくれれば。

犬じゃん。と思う。だからみんなペット飼うのかな。

純粋さと幼さと主人への依存。可愛さ。

ネットに潜って何もかも知ったような気になって誰にも心を打ち明けられなくて段々人とコミュニケーションもうまく取れなくなって人に嫌われることと正反対じゃないか。

心の底から好きで、頼りになって、信じられる存在が欲しい。

苦しい。誰か助けて。僕はここにいます。

脱糞の脱糞の為の脱糞による脱糞

アイドルだって脱糞するんです。

むしろそれが良い、なんて上級者じゃないけれど。

どういう意図で興奮するんだろう、

人は誰しも逃れ得ぬものに縛られて生きていると思う。

肉体がある、社会がある、常識がある。

思考がある、個性がある、時間がある。

終わりが、ある。

そもそも生物として生を受けている時点で、地球に縛られる有機物である。

全くの自由というのは想像できない。

万能なら良いのか?しかしそれも大いなる力を持つという縛りがある。

真の意味での自由なんてないのかもしれない。

どちらかと言うと、一般的に言われる自由というのは解放的な、といったニュアンスがあるのかもしれない。

自由というのは全てを手にするのではなく、撰び取ることを言うのか。

それですら道を往くことは決まっていて…前提を覆すことにはなり得ない。 その場にとどまる自由もあるが。 何も得ず何も失わない、いや何者にも侵されないもの、それが自由?

しかしこうして思考がある限り、完全じゃない。 何も考えず、死なず、侵されず… 感覚と感情だけで生きていくことが正解なんだろうか。 それを選ぶこともできるようになるのが一番良い。 と思う。

無形の脱糞

早い話が下痢である。

水分が逃げるわ、脂汗かくわ、拭いても拭いても取れた気がしないわと散々だ。

しかし、そんなリスクを背負ってでも外に出るのが人間でありむしろそれを娯楽にすらしてしまう。

危険を楽しむのが文化人の嗜みなんだろうか。

自分にとってはあまりにリスキーだが。

しかし映像と音が加わると海から吹く風も演出になりうる。

ソファーに転がりながらボーッと眺めるテレビとは違う、本当にそこにいる感覚というのはやはり五感を使う差というのがあるのだろう。

匂いと触感(感覚?)は大事にしたい。

人が進化していくとグレイみたいになるという未来予想図を何処かで見たことがある。

最終的には眼と脳と触手だけになるんじゃないだろうか…。

あ、イカだこれ。

なんてことだ人間が滅んだ後地球の覇者になるのはイカとか言われているがあれは元人間だったのか。

もしかして外来の生き物だった…?

すると人類は宇宙人を食べる野蛮人なのだろうか。

なにそれこわい。

ウェールズは確か火星人=蛸?のような生き物だったけど、イカはどこ産なんだろう。

外宇宙から飛来したのか、それとも水星帰りの人間なんだろうか。

他の惑星に生き物がいたとしてそれを観測する、ないしはいた痕跡も見つけられないところを見ると、人類が宇宙に広がって地球に還ると異形の姿になっていた的な事なんだろうか。

想像が膨らむ。宇宙が広がる。

しかし疲れた、今日はもう寝よう。

文章書くの習慣づけようとすると考えたこととか思ったこと変換しようとする作業が脳に染みてくるね。

楽しくなってきたかも。

乱暴、怒りの脱糞

パロネタである。

それも特に上手くない駄洒落。

これが他人なら死んでしまえで済むのだが、

いかんせんこれを書いたのは自分だ。

念じても消え去らない。

それどころか脳内では肯定派が優勢になりつつある。

どれだけ自分に甘いのだ。

いやしかし世界は自分に厳しい。

これぐらいでちょうどよい。バランスはとれているのだろう、きっと。

健全な脱糞

仕事を辞めてから頗る胃の調子が良い。

まるで、体の中に入っていた石が溶けて無くなつたかのようだ。

いやこれはなんともたまらん、無職とはこんなにも自由で色鮮やかな世界が見えるのかと思つたが、やはりというか自由の代償といふのはそれなりに高価なものであるようだ。

だが、しかし身体が資本といふことばもあることだし、やはり判断は正しいものだつたのだ。

あんな理不尽とヤニを混ぜて煮詰めたようなむらにいることが間違ひだつたのだ。

あそこにつとめていろいろなものが嫌いになった。

好き嫌いがあることではなく、それを自覚してしまうことにこそ問題がある。

曖昧なものは曖昧なまま、好きでも嫌いでもなく生きていないかのように生きていたい。